【私の母の物語】親が破茶滅茶でも子供は育つ

 

こんにちは 心笑庵(@shinsyoan777)です。

 

毎日毎日寒いですが、着々と「かめプロジェクト」進んでおりますよ。

 

この活動を始めてから毎日誰かしらが家を訪ねてくるようになりました。
以前はほぼほぼ誰も訪ねてくることがなく、国道を走る車の音しかしていなかったので、なんだか賑やかでいいですね。

 

中には野菜を持ってきてくれたり、お漬物を持ってきてくれたりする人もいて非常にありがたいことだと思います。

 

昨日なんか柚子をいただいたので、ゆず湯を堪能させていただきました。
お風呂場に広がる柑橘系の爽やかな香りでいつも以上にリラックスしたおかげか、昨晩はぐっすり眠れました。

(※冬至にゆず湯に入るのは、ゆずは香りが強く邪気を払うという考え方から、禊としてその日に入るんだそうです。)

 

スーパーをやっている時も色々な人と顔を合わせてはいたのですが、またその時とは違った感じで、とにかく毎日楽しく過ごさせていただいています。

 

 

さて今日は私の人生において欠かすことのできない人を紹介しようかと思います。

 

この人がいなければ今の私はありません。ですが、この人の行動はとても破天荒で、全く予想がつかず、長い間振り回されたりもしました。

 

時には恨んだり、憎んだり。

いえ、正直いうと時にはではなく、長いこと恨めしく思っていました。

 

ですからこの人に対する感情は一言では言い表すことができません。

なんだかんだでとてもお世話になった人でもあり、とてもお世話をした人でもあります。

 

 

今日は、そんな破天荒である意味子供みたいな私の母の話をしようと思います。

本当にいろいろありはしましたが、今ではこの母の元に生まれてよかったなと感じているところです。

※母親の破天荒話はいくらでもありますのでシリーズ化決定です。笑

というわけで今回は「その女、破天荒につき エピソード1」をお送りしたいと思います。

 

目次

破天荒すぎる母に振り回された幼少期

 

今から70年前、熊本県の最北端に位置する場所で私は誕生いたしました。杉林に囲まれ、のどかとはこのことか!を体現したような場所です。THE田舎という環境で心笑庵少年はすくすくと大きくなっていくのですが、うちの家庭には他とは違う点がありました。

 

実は、奥様は魔女だっ・・・ではなく、母親がものすごく破天荒な人だったということ。

本当にこんな人いるの?というレベルです。

 

うちの家庭は父親が病気がちでたびたび長期間入院していたということもあり、なかなか金銭的には厳しく幼い頃から貧乏生活でした。

他の人が何かしら買ってもらっている中、私は色々な遊び道具を自作しました。

 

「買ってもらえないなら、自分で作ればいいじゃない」(マリー・アントワネット風)

そのおかげで手先が器用になったのである意味よかったのかもしれませんが、やはり周囲に対する嫉妬はありました。

 

(いいな。いいな。自分も欲しいな。)

けれど羨ましく思いながらも、そんな態度は絶対に周りには見せません。

 

「憐れみや同情は絶対に受けたくない」

子供ながらにそんなプライドは持っていました。それを覆い隠すために努めて明るく振る舞う日々。貧乏だからって暗くしていたらあらゆる面で負けが確定してしまう気がして。

 

しか〜し、私の母親は子供のプライドなど知ってかしらずか破天荒な行動をとり続けました。
まさにゴーイングマイウェイ。強がる息子の足を引っ張る母親だったのです。

 

その最たるものが買い物依存症。

どんな買い物も¥1,000だけおいてツケ払いで購入してくるのです。自分のものだけでなく、買った品物を人に配ったりもしていました。うちにお金がないのになんでそんなことをするの?とわからないことだらけだったのですが、そうして父親の知らぬまに色々なところに未払金がどんどん作られていきました。

 

本人は何を買ったか把握しておらず、請求書がきてもタンスの奥に隠します。
後からバレることは考えれば分かるはずなのに、何度父親が注意してもそれは治りません。

 

さらに近所の色々なお店でそれを繰り返していたせいで、私は近所を歩く時も肩身の狭い思いをしなければなりませんでした。

 

流石に業を煮やした父親が母親を家から締め出し、玄関の鍵を閉めてしまうと、外にあった木製のハンマーを玄関目掛けて振り下ろす始末。

 

「開けなっせーーーー!!!」

 

ガシャーン!!と大きな音をたてて玄関のドアが打ち破られた時の光景が今でもありありと目に浮かびます。カッと目を見開きながら仁王立ちで鼻息荒く玄関に佇む母親。父親もその様子を見て呆然と呆れ顔。この人は何かがおかしいと子供ながらに感じていました。

 

当の本人はというと罪悪感というものがあまりないらしく、何度怒られても性懲りも無く品物を買っては人に配るということがやめられないようでした。

(※事情を知らない人は頻繁にものをくれる母親のことをただのいい人だと思っていたようです。笑)

 

それが子供の頃の苦い思い出です・・・で終わればまだよかったのですが、私が成人した後もそれは輪をかけてひどくなっていったのです。

 

親の尻を拭う苦しい日々

 

本州を転々とし、熊本に帰ってきた頃の話。

(※東京で消火器販売をしていた時の話はこちら↓↓↓)

あわせて読みたい
【人は鏡】私が深く後悔した日のことをお話しします。     こんにちは またまたやらかしました心笑庵(@shinsyoan777)です。笑   さていきなりですが問題です。   私は今回何をやらかしたでしょう? ※ヒ...

 

ある時私の故郷にある商店から電話がかかってきました。私宛の電話がわざわざそんなところから来るのはおかしい。私は一瞬でピンときて冷や汗が。

 

「もしもし・・・」

電話の内容は予想通り母親が作った未払金を払って欲しいというものです。

 

「またか・・・」

私は怒りの気持ちを抑えながら母親の元へ車を走らせます。母親も何かを察したらしくどことなくしょんぼり。もういい加減にしてくれと伝え、代金を立て替えて支払いを済ませます。

 

こんなことが次々と続きました。

時には高級羽毛布団40万円、着ていく宛があるはずもないのに購入された何着もの派手な着物などなど数えればキリがないほど、地元だけでなく別の地域でも色々なところにツケ払いが生まれていました。

ですから毎回請求書が来るたびに頭を抱えました。

 

最たるものが一時入院していた病院の売店からの請求です。

その額6万円。

入院費の他に売店からの購入品として6万円が計上されているではありませんか。

 

一体病院の売店で何を買えばそんな金額になるのか?と疑問符だらけです。
何かの間違いかなと詳しく話を聞いてみると、毎日売店で品物を買っては同室の人たちに配って回っていたそう。

 

その場で

「売店は土産物屋じゃないんだぞ!」

と怒鳴ってしまいそうになりましたが、同室の方達からは

 

「お世話になっています。いつもニコニコ笑顔で本当にいいお母さんですね。」

と言われてしまい、苦虫を噛み潰した表情をするしかありませんでした。

 

私自身の給料も決して多くなかったので、毎回どうしようかと青ざめていましたね。
今思えばよくそんな状況を乗り越えられたなと思います。毎回必死の金策でした。

 

言い方が悪いですが、我が母親が借金製造装置のように思えて一時期は本当に憎くて、恨めしくてしょうがなかった。

小さい頃だけでなく大人になっても苦しめられる。どこまでいっても縁を切れない血縁関係。

 

「なんで自分の親はこんな最悪な人なんだろうな」

と心底自分の運命が嫌になりかけましたね。父親や自分たち兄弟などの身内だけでなく、お店の方や色々な方にご迷惑をおかけしてしまい本当に恥ずかしい以外の何者でもない。

そのくせ本人はケロッとして買い物を繰り返す。

本当にどういう風に接するのが正解なのかわからなくなっていました。

 

けれどある時そんな気持ちに蹴りがついたのです。

 

孫の顔をみれるのもこの人がいたからこそ

 

それは母親が亡くなるちょっと前のこと。母親は合併症を引き起こし再度入院していました。
もう90歳近い年齢ですので何があってもおかしくはありません。

 

そんな中、娘が長崎から孫たちを連れて熊本に来ていました。一点の曇りもない笑顔で無邪気に遊んでいる孫たちの姿を見ていると、ふと昔のことが思い出されたのです。

 

 

それは私が小学6年の時の話。

遊んでいて友人がふざけて降りおろした棒がたまたま私の口に当たり、大きく裂傷し、出血してしまいました。どくどくと勢いよく流れ、止まる様子のないほどの真っ赤な血に私の顔は青ざめます。

 

ズキン。ズキン。と疼く患部。

痛みに思わず涙がこぼれます。

 

するとすぐさま近くにいた母親が血相を変えて私をおぶったのです。そしてそのまま3km以上も離れた病院まで私をおぶったまま歩き続けました。

 

母親の身長は140cmほど。

明らかに私の身長の方が高いのに、その身体で小学校高学年の子供をおんぶして歩くというのは並大抵のことではなかったろうと思います。けれど我が子が苦しんでいる姿を見ていられなかったのでしょう。私を背負いながらも早足で歩く母親の姿からは、とにかく必死な様子が見て取れました。

 

「まっとれよすぐ病院に連れていくけんな・・・」

 

後から表情は見えませんでしたが、息の上がり方からして母親も相当なしかめっ面だったに違いありません。

いつ以来かわからいほど久しぶりに母親におんぶされながら、母親の背中に滴り落ちる血を眺め、痛みに耐えていたのを今でもよく覚えています。(今考えれば怪我したのは口なので、自分で歩けたはずだとは思うのですが・・・笑)

 

なぜその記憶が蘇ったのかは分かりませんが、それが思い出された後

 

「ああ、こうして孫たちのかわいい姿を見ることができるのも母親がいたからだよな。あの人が自分をこの世に産んでくれたからこそこの体験ができている。」

 

「小さい頃からこれまで散々な目に遭わされてきたけど、親が子供にかける愛情に偽りはなかったんだろう。母親は不器用だからそれをうまく表現できなかっただけで、子供がどんなに親のことを憎んでいても、親にとって子供がかわいいものだ。」

 

あの日、母親の背中から感じ取れた私に対する愛情に一点の曇りもなかった。私がこうして子供や孫たちに向ける愛情と同じものを母親も持っていたんだということが感じ取れ、それまでの行為を許すような気持ちが生まれたのです。

 

なんとも不思議な感じでした。

 

小さい頃から

「なんでこんな母親を持ってしまったんだ!」

と惨めで、悔しく、恨めしい思いでいっぱいだったはずの母親相手に感謝できる日が来るなんて。

孫たちがキャッキャと騒ぎなが飛び跳ねる姿を眺めながら、私はもう一つの感情を感じていたのです。

 

「ありがとうお袋」

心の中でそう呟き、今目の前にある幸せを噛み締めていました。

 

そしてそれからしばらくして母は亡くなりました。
享年89歳。

 

 

破天荒で最後までゴーイングマイウェイを貫き通した人はあの世に旅立ちました。

決して世間様に誇れるような母親ではありませんでしたが、このように長寿をまっとうすることができたのも多くの人の助けがあったからこそ。

母親に関わっていただいた全ての人に感謝いたします。

(あの世でも破天荒なままかな?・・・笑)

 

今つらいことも後で振り返れば全て糧になる

 

 

小さい頃、そして成人しても母親のことを恨めしく思っていました。何度注意しても繰り返されるその破天荒な振る舞いは私を散々苦しめてきたからです。

 

「もう少しまともな親ならどれほど良かったか・・・」

「情けな親だ」

 

何度そう考えたか分かりません。けれどそういう親だったからこそ、小さい頃から色々なことを考えてこれました。料理も自分で作るようになり、遊び方も自分で工夫してあみ出すように。それに人より苦しみに対する耐性がついていたと言えばいいでしょうか。

 

端的に言えば鍛えられました。

我慢しながらもどういう風にやれば困難を乗り越えられるかが、感覚的に学べたのです。
そしてそれはいつの間にか自分を成長させるための材料になっていました。

 

「野中さんな、ようそやん前向きに物事を考えられますね?」

と周りの人からはよく言われます。自分でも気づいていなかったのですが、どうやらそうらしいのです。いつの間にか人より柔軟に物事を考えられるようになっていました。

これは思わぬギフトでした。

 

これまでの母親の破天荒さ加減に苦しむことが、私の人としての成長に不可欠なものだったなんて。

人生に無駄なことってないのだなとつくづく思います。最後の最後に母親に対して感謝の念を持つなんて、昔の自分からしたら考えられないですよ。

 

「お〜い哲雄!お前は最後にお袋に感謝するぞー!本当だぞー!」

と過去の自分に声をかけても絶対信じないでしょうね。笑 うん、どう考えても無理だ。

 

襲いかかってくる困難に負けずに乗り越えていけば必ずいい方向に行くと私は信じています。

きっとそうです。

なぜならそのことを私の実の母親から嫌というほど教えられましたから。笑

 

もしあなたが今苦しい状況にいたとしたら、それは後から振り返ってみるとしなければならない経験なのかもしれません。もしそうだとしたら負けてはいられませんよね。

 

シーーーーー。

 

そっと耳を澄ましてみてください。

未来の自分から

「大丈夫だぞー!それを乗り越えれば明るい未来が待ってるぞー!安心して進めー!」

と声が聞こえてきませんか?

 

・・・確かに聞こえましたね。笑

では勇気を出して前に進みましょう!

 

誰かのお役に立てれば幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

私の地元の風景も昔と比べると様変わりしました。やめていかれるお店が後をたちませんが、まだ一人元気にお店をやられている方がいらっしゃいます。ご高齢にも関わらず私よりも元気なおばちゃん。このお店を訪れると私はいつも感慨深くなります。

そのおばちゃんのことを書きました。↓↓↓

あわせて読みたい
【驚異の九十六歳】元気の秘訣は〇〇にあった!       こんにちは 心笑庵(@shinsyoan777)です。   いや〜最近は時代の流れが早くてなかなかついていけないところがあります。 特に機械操作はどうも苦...

 

-------------------------------------------------------------------


私は長年経営していたスーパーをやめて、現在は創作活動をしながら地域を盛り上げるような活動を行っています。


これまで本当に山あり谷ありの人生を送ってきて、決して順風満帆ではありませんでした。


幼い頃の貧乏生活、若い頃の度重なる挫折、何度病院に通ったかわからないほどの病の連続、そして我が子の死。

思い返せば苦しい時期の方がはるかに長かった。

心が折れそうになったことは数知れません。


けれどいつも笑顔とユーモアを持ち続けてきた結果、今では自分のやりたいことで周りの人に喜ばれるような活動ができています。


こんな風な人生になれたのも人のためという気持ちを忘れなかったからだと感じます。

ここまで生きて来れて本当によかった。


悲しいことはありましたけど、私は私として人生を生きられることを幸せに思います。

ある程度年齢を重ね、人の喜び=自分の喜びだと今では深く感じています。

ありがたいことに私の拙い言葉で感動されたり、涙を流して喜ばれる方も出てきました。 私はそれが嬉しくてたまりません。

私ができることで1人でも多くの皆さんのお役に立てるのならこれほど嬉しいことはありません。


ということで心笑庵公式LINEを始めました!

下記より友達登録できます。


友だち追加

普段感じている悩みや不安、誰に相談していいかわからない事、世間話でも構いません。


1人で悩まないでそっと吐き出してみませんか?

人は言いたいこと吐き出したいことをため込んでしまうと、ストレスで自分の本来の力を出せなくなっていくものです。

きっと苦しいはずです。我慢はいつまでも続きません。

私は失敗や恥を遠慮なく吐き出してしまうことで人生を好転させていきました。

私がもしため込んでしまう人間だったらおそらくもうこの世にはいないかも知れません。


それくらい多くの失敗や恥ずかしい経験をしてきました。


あなたがもし自分の中だけにため込んでしまって苦しんでいるのなら、どうぞ気軽にご相談ください。

(※料金が発生するわけでもありませんからご安心してください^ ^)


心笑庵公式LINE内容

  • 定期的に届く「心がホッとする言葉」
  • ご相談いただいた方には、ご相談内容に基づき、個別に私が心を込めた言葉(筆文字)をプレゼント
  • ブログ更新のお知らせ
  • 今後の活動内容をどこよりも早くお届け
などなど色々な情報をお届けします。
 

どうぞご気軽に!それではお待ちしています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

心笑庵 a.k.a 野中 哲雄(のなか てつを)

頭はこんな感じですが、坊さんではありません(笑)。

心笑庵という肩書きで創作活動をやっています。
2019年まではスーパーを経営しておりました。現在は創作活動を通して地域を盛り上げるために活動しています。

このブログでは私の現在の活動、そして紆余曲折の人生で学んだ人生の知恵をお伝えしていけたらなと考えております。

コメント

コメントする

目次